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Like Sugar&bitter chocolate  邦ドラマと映画の甘くてちょっとほろ苦い感想雑記。けっこなんでも飛び出すごちゃまぜブログです。お暇つぶしになれば幸い。ヾ(≧∇≦)
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2020*12*03(Thu)
閉塞性動脈硬化症とカテーテル治療
2020年秋。父は再び手術を行った。今度は左足である。

2020年10月。
今回、右足の術後経過がようやく順調ということで、左足の血管も年内までには手術をした方が良いとの説明があり
担当医から改めて意思を確認された。
現時点での自覚症状なし。
階段歩行に異常なし。
右足の治療経過観察のために通院しているから、たまたま、左側も詰まっていることを発見できている状態である。

血管内エコー検査によると、足の付け根から太腿にかけて15センチくらい、血管が消失。
これは血流がほぼないということ。
一月のバイパス手術とは異なり、カテーテル治療を行える状態。
手術は全身麻酔ではなく部分麻酔。2~3時間の内容、二泊三日程度の入院。

担当医は、既に何らかの自覚症状あってもいいんだけどねぇ、と首を傾げているが
本人(父)は、右と左にそんな差はないと言い張っているので
なんとか耐え抜いているギリギリの状態なのだろうということだった。
むしろ父にしてみると、手術を行った右足の足の裏の感覚が未だ中途半端にしか戻っておらず
それが気になると、しきりに訴えている。
本人曰く、靴下を一部だけもう一枚履いているような感覚らしい。

現時点の現状覚書。
登り切った後に5分以上の休憩がなければ歩き出せなかった地下鉄の階段歩行が通常到達可能。
一日一万歩弱の散歩を日課。
左と右とで同じくらいの疲労感。

いつにする~?いつでもいいよ~?と朗らかに聞かれ、私も父も、前回とは全く違う心境で受け止めていて
そんな切羽詰まった状況(つまり一刻を争う事態)ではないことに、ほっとしていた。
そして、11月中旬、良く晴れたまだ温かい月曜日、父はまた同じ病院に入院した。


11月16日。
この日が入院初日である。
予め術前にやる検査や処置などもないため、まるで人間ドッグにでも入りに来たような感覚。
今回は大部屋ではなく、2ランク上の個室だった。
少々金額は高くつくが、そこしか空いていなかったとのこと。
これは、コロナ禍の手術ということもあり、家族にとっては逆にありがたい話でもあった。

実は、担当医と主治医には我が家の事情(母が急死したばかり)も話してあり
私の精神的な部分をかなり心配してくださっていて
そのため、手術時期を少し融通を効かせて遅らせていたし、部屋も入れるように個室を優先してくれていた。
病院は当然、家族であっても完全面会謝絶となっている。
コロナ禍はこんなところにも影響している。

そういう事情は、母の時にも痛感していたことだったので然程ショックは受けなかったが
それでも何かあっても会えないのか・・・と思えば、恐いものがあった。

その辺りの話がどこまで通っていたかは結局のところ不明だが
それでも事情を考慮してくれた心遣いが、私にとってはかなり精神的に救われていた。


この日、もう一度担当医から改めて手術の詳細な説明と同意書へのサインがあった。
少し術式が変わったことを告げられる。

父の血管はどうやら完全に詰まっている状態と判断され、カテーテルを挿入するのが難しい。
カテーテルを狭くなった血管に挿入することで治療していく術式なのに、そもそも血管に入れられないのだ。
なので、本来ならば小さな穴から管を通して・・・という術式だったのだが
まず5cmくらい切り開き、カテーテルを入れる血管内を少し砕いて、それから通常の処置に入るので
2~3時間では終わらないかもしれないとのこと。
また、血管内を砕くため、スコープを入れるための穴を反対側の足に開けるので
手術痕は二つになる。

前回とは違って小さな痕だよ、と医師は笑うが、別に80近いじーさんの足などワイルドでもかまわない。
それよりも、手術前日になってそういう生々しい話が出てきて
少し怖くなったのを覚えている。


11月17日。
手術当日。
AM7:30、朝から食事抜きの父が電話をかけてきて、今点滴やってるとこだと報告してきた。
本当は手術前にも顔を見ておきたかったが、行ったところで何もできないし
簡単な手術だというし
大袈裟にするのもあれだし
何よりコロナ禍で入れない病室に行くのも気が引けて、看護師さんたちにも悪いしなと思い、遠慮した。

午後、手術が終わった頃を見計らっていくことにする。
父の手術は朝一で始まるとのこと。
9時からなので、恐らく12時頃にはもう終わってる筈だよと、担当医の医師から私への伝言。

昼ご飯を食べてから、ドキドキして病院へと行く。
私が到着した時、病室に父はまだ戻っていなかった。
戻ってきたら声をかけるので、そうしたら病室に入れるという。
(それまではコロナ禍のため、病棟ごと入室制限をされている)

ところが、1時になっても、2時になっても、一向に呼ばれない。
何度もスタッフステーションの看護師さんに状況を聞くが
「まだ医師から何の連絡も入っていません」との一点張りだった。

簡単な手術だって言ったのに。
すぐ終わるって言ったのに。
そう思って一人待っている時間は果てしなく長かった。
何かトラブルが?と聞いても、「何の連絡もないので大丈夫だとは思うんですけど」という返事。
病院内を上がったり下がったりして、ひたすら待っていると
午後3時半。ようやく手術が終わったとの連絡が入った。
朝9時から始まったので、6時間の大手術だった。前回と同じじゃん。

しかし、前回と異なるのは、医師の表情だ。
「今手術が終わりました。この後術後のバイタルチェックを行いますので、その間、医師からお話があります」
前回は家族に報告することは何もないと若手スタッフが対応していたのに
まずそこから状況が違う。
呼ばれた部屋に現れたのは、1月の時と同じ主治医の医師だったが
見たこともないくらい、やつれた顔をして現れた。
びっくりした。

前回の8時間近い手術の時ですら、爽やかな顔をして現れ
「ああ、無事終わりました。問題ないです」とあっさり告げてきた人なのに
この疲労感。
どうしちゃったの。
いつもは強引ぐな医師が、汗を拭きつつ、息も乱しつつ、言葉もしどろもどろだ。

「え~と・・まずね、想像以上に大変でした」


****

父の病気は閉塞性動脈硬化症という。
足先に血流を送る動脈が狭窄して、血流障害が生じた病気だが
その治療の一つとして、カテーテルを用いた動脈拡張術がある。
カテーテルという細い筒を動脈内に挿入して、この筒からバルーンを挿入して狭窄を拡張し
ステントという金属の網状の筒を狭窄部位に留置して、狭くなった動脈の内腔を内側から押し広げる。

1月に受けたバイパス手術は、詰まった血管はもう放置して、それとは別に新しい血管を作ってしまうというものであり
今回とは使用する血管が根本的に違う。


父の血管は、思っていた以上にもうボロボロであること。
血管内エコー検査ではきちんと血流が見られた箇所でも、上から見た画像ではそうであっても
下半分はもう石灰化していたりして、触れるとそのまますぐにボロボロと砕けてしまう。

詰まった血管内を砕いてカテーテルを挿入しようとしても
血管が脆すぎて、挿入器具の衝撃に耐えられず、途中で血管が破裂してしまうのだ。
場所によっては大出血となり、命にかかわる。

若い血管ならば弾力性があり、ぷるんとカテーテルが血管に沿って入っていくところ
触れると崩れてしまうので、予定していた場所が使えず、どこから入れるか、かなりの試行錯誤があったとのことだった。
実際、数回、血管を破いてしまい、流血させてしまったらしい。

「ああ、もちろんちゃんと処置しましたけどね」

ところで、今回の手術は全身麻酔ではなく部分麻酔であり、父には意識があった。
眠くなる薬を大量投与するはめにはなってしまったが、父にもこの辺りの記憶があるらしい。
術後、父が言う。
「手術室は寒いし、なんか足切られたとこ痛いし、ときどき生暖かいものが流れていた」

流血した感覚があるってこわっ。

「あ、こっちだめだ、じゃあ、こっちから行くか、って話してんのも聞こえた」


手術の翌日には、担当医からも話を聞くことが出来たのだが
「いやあすいません!待たせちゃったね!でも想像以上に大変でした!」って笑っていた。
このセンセイ、キャラが明るい。

事前に見ていたエコー検査では分からないくらい、どの血管も触れないくらいボロボロで
どうにもならずに苦労したのだと。
だから時間はかかってしまったが、結論からいうと、とりあえずは成功。

無事、ステントも入れられ、歩行にも影響のない形で、血流を再開させることができたはず。
骨盤内の状態からかなり良いところまで持っていけたはずなので
術後の回復次第で退院できそう、との説明をしてくれた。

ただ、ふくらはぎから下、本来三本あるはずの血管が一本しかなくなっており
それもかなりボロボロなので再建したかったのだが、さすがにもう時間がなかった、とのことだった。


その日、きちんと血流が足先まであるか入念にチェックされた後に、面会が叶った。
寒い寒いと何度も父は口にしていて、持って行ったニットのカーディガンを肩にかけた。
病院の作りって大体どこも同じで
僅か3カ月前、同じ雰囲気の病室のベッドでこんな風に横たわっていた母と同じように
今、父が横たわっている現実が、妙に目に焼き付いた。



11月18日
お昼ごろ、病院に行くと、父はもう起き上がっていた。
「動けるの?」
「全然平気」

痛み止めなども使用せず、鈍痛があるくらいで、ほぼ動かせるらしい。
手術翌日でここまで回復できるということは、やはり本来ならばこの手術って
本当に二泊三日で済むようなタイプのものなのだなと、妙に納得した。

その翌日、東京は強風が吹き、一気に大気が入れ替わる。
季節は動いたが、やはり退院許可は下りなかった。

翌々日も、術痕の回復を見つつ、まだ退院許可は下りない。

4日後。
全身の血管のCTを撮影。
ここで、ほんの一部、石灰を取り損ねた箇所が発見された。
取り損ねた石灰は、そこを核として、どんどん大きくなっていってしまうので
来年あたり、もう一度手術した方がよいとのこと。


11月23日。
結局8日の入院となり、父、退院する。
以前と違って病院食がまずくなっていたらしく、一週間で根を上げていたこともあり
少々長引いたが、ほぼ自分で退院日を決めてしまった。
一週間くらいしか経っていないのに、入院前とはまるで違う、風の冷たい日だった。


膝から下の血管が二本ないことも含めて、来年もまたこの病気と付き合っていくことになりそうだ。
父曰く、今年は手術に始まり手術に終わった感じだそうで
そういう私も、父の手術から始まり、母の介護と入院と死亡まで、そしてまた今回の手術と
なんだか自分のことなど全く忘れた一年だった。

父が入院した一週間。
初めて母も父もいない家に一人で過ごした。
もちろん、実家暮らしとはいえ、たまには私ひとりになることもあったが、今回は事情が違う。
もう母は帰ってこないし、父だってどうなるか分からないのだ。
たった一人分の食事を作りながら、これからのことを思って号泣した。

最初の三日間だけ、お隣のお世話になって、夕食をご馳走になった。
お隣の奥さんが、仕事帰りに三日間私の分の夕食も用意してくれた。
寒さに人の優しさが身に染みる。この時間だけ、恐さを忘れることが出来た。
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2020*10*04(Sun)
閉塞性動脈硬化症とバイパス手術
2020年正月。
父が突然「なんか足が痺れたまま戻らないんだよ」と言いだした。
右足だけジンジンとした痛みが消えないらしい。また、右足だけ冷たく冷え切ったままだ。
東京でも1月は0度近くまで冷え込む夜もある。
足が冷たすぎて、眠れないと、父は言った。

間が悪く、病院はどこも冬ごもり期間だった。
大概の病院は緊急以外、三が日を過ぎてからだ。
救急車を呼ぶかどうかは、父本人も多少は迷っていた。
だが結局、近くの整形外科か形成外科に行ってからだろうと結論付け、そのまま、眠れない正月を過ごした。

2020年1月のカレンダーは、三が日が週末でそのまま土日に入る。
週が明けた6日が仕事始めだ。

朝になっても痺れは取れず、足は右だけ冷え切っているかんじが続く。
階段を上り下りするため片足に体重をかけるとズキズキとした痛みが走る。
一歩一歩、ゆっくりだがそれでも自分の力で移動。
大抵の家がそうだと思うが、リビングやキッチン、バスは一階で、寝室は二階だ。
一日の中で移動する機会は、意外に多かった。


1月6日。
以前、父自身が足の裏に出来たマメの治療で行ったことのある、形成外科へ相談に行く。
温湿布でも貼ってみるか?それともこれは整形外科の方がいいんじゃない?と言われる。

1月7日。
私も行ったことのある整形外科に行ってみる。
問診と検査を行った院長先生は、「これはウチじゃないなぁ。紹介状書いてあげるから、そっち、行ってみて」
この診断で父は、血管外科を紹介された。

1月8日。
「あ。これやばい!もう、すぐに入院ね!手術しないとだめだこりゃ!」

開口一番、父はこう言われたらしい。
この時の担当が後に主治医となった医師なのだが
後日、「もうね、診察室に入ってきた瞬間に分かったよ」と私に言った。

結局この日、父は車でその病院に行ったにも関わらず、そのまま緊急入院、緊急手術となった。


*****

父の病名は、「閉塞性動脈硬化症」だった。
足の付け根の部分から爪先まで、血管がすべて消失しているCTを見せられたのはかなりの衝撃だ。

ステージは4段階に分かれる。
Ⅰ 痺れがある
Ⅱ 間歇性跛行。歩くと筋肉が張る感じがあるがしばらくすると治る
Ⅲ 安静時疼痛。安静時にも鈍痛がある
Ⅳ 潰瘍・壊疽

父の診断はステージ3。
このままだと腐っていくだけだと言われた。
また、膝のあたりに腫瘍・血管コブのようなものが見つかったこともあり(これは放置で良いとのこと)
既にカテーテル治療は出来ない状態だという。
付け根の当たりから足首まで、ほぼ完全に血管が詰まり切っているからだ。
もう少し早く受診していれば、カテーテル治療で簡単に済んだのにと、叱られていた。

そこで、血管を移植するバイパス手術を即時行うこととなった。
足のバイパス手術って、自分の血管を使うらしい。
入院から一週間。
1月21日、手術が行われた。6時間かかった。


足というのは、動物が命を繋ぐために主要動脈が二本あるのだそうだ。。
だから、父の場合一本が完全に詰まってしまっていてもギリギリ腐らずに済んでいた。
その原因は、酒とたばこだ。
明白すぎて、これまた医師にこっぴどく叱られていた。

その日を境に父は、ぴたりと煙草を止めた。
今も一本も吸っていないし、吸いたくもならないと言っている。
煙草は依存性があり、禁煙外来を設置しているところもあると聞くが、父の場合
①緊急入院ということでいきなり缶詰状態になってしまった
②自分の足がどんどん冷えていく苦しさに、本人としてはそれどころではなかった
が重なり、なんか、あっさりと止めた。

あれだけ私や母が煙草は止めてと訴えていたにも関わらずだ。

今、父には足の付け根の部分から足首まで、随分と派手な手術痕がある。
特にふくらはぎの部分は筋肉が太く、塞がるまでに8カ月かかった。
多少、母の介護で無理をしたせいもあり、傷口が開き、その分大袈裟な傷痕となって残っている。
実にワイルドだ。

痺れは、完全に取れなかった。
手術の時に神経も多少切れてしまい、それはそう簡単には戻らないとの話だ。
足の裏になんかもう一枚靴下を踏んでいるような感じらしい。

足の感覚が麻痺してから手術に至るまで。この間、父は記憶がないと言っている。


自覚症状。
今から思い起こせば、数年前から父は趣味だったゴルフが出来なくなっていた。
コースの坂道を登るのがキツくなってしまったのだという。
近くの河川敷などのコースを回っていたが、それもやがて、出来なくなっていった。

一年ほど前からは、地下鉄の階段を登り切ったとき、筋肉の張りがひどく、5分くらい歩けなくなると言っていた。
とにかく階段がきつくなったというのが、酒を呑みながら零す話題のひとつとなった。

ただ、これだけの明確な症状があっても受診まで行かなかったのは
これらの症状は「老化」だと思い込んでいたからだ。
ああもう俺も年だなぁ。足腰が弱ってきているんだなぁ。

片足だけが痺れている違和感も、特に不思議には思わなかったとのこと。
軸足の方が痺れやすい等は仕事仲間の間ではよく内輪で話すネタらしく
しばらくすれば治ることから、特に不安も疑問も感じなかったという。

父は駐車監視員の仕事をしており、歩くことが仕事だった。
一日中歩き続ける仕事だ。
一回二時間、それを一日三本。
長時間歩くことが出来てしまっていたことも、足の病気への気付きを遅らせた原因だ。
ただ、こうして毎日歩くことを習慣にしていたことは
結果的に、血流を良くすることにも繋がるため、不幸中の幸いだったと後に医師から告げられた。


今年78歳。
全てが老化現象で、筋力が落ちてきたんだなぁ、で片付けられてしまっていた。
それ以外に不審な症状もないし、仕事も普通に行えていたため
家族としても、特に病院を勧めることはなかった。

それが今冬、徐々に詰まってきた血管がついに塞がったということなのだろう。
コロナが世間で騒がれ始めた、桜の咲く少し前の話だ。
母に手一杯で、まだ私も仕事をしていた時期のこと。
コロナ禍の中、完全に父を隔離してくれたことは、私にとっては母を日中一人にする不安は残るものの
父の心配まで背負えず、心理的余裕が設けられた。
ここまでの大ごとになるとは想像もしていなかったし、このあとあの目まぐるしい母の介護生活に突入するとは
夢にも考えていなかった。


そのまま結局3月末まで入院することとなった父。
それは丁度、母が腰を痛めたと言いだした時期と重なる。
「まったく、肝心な時にパパは使えないんだから~」と母がぼやいていたのを、思い出す。
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2020*09*21(Mon)
訪問診療VS緩和ケア
2019年9月、強めのステロイド(通称:プレドニン)を始めてみようと主治医に言われて母は2カ月ほど入院をした。
まさかそこから1年ももたない身体だっただなんて、あの日の私たちは知らない。

それまではオフェブ100mg(1日2回)をメインに服用。
プレドニン5mg(1日3錠)
リン酸コデイン1% 6g
サムチレール内用懸濁液15% 2包
あとはアレルギーを抑える薬や胃薬、目薬など。


2019年11月、退院。
2カ月ぶりに帰宅すると、母は自宅の階段を上がれなくなっていた。
その変化に愕然としていたが、私たち家族も同じだった。
たった2カ月入院しただけで、階段が登れなくなるなんて。

2020年1月。
母は腰が痛いと言って、歩くことが困難になった。
座っているだけでも痛みが強く、どんな鎮痛剤を使用しても改善しなかった。
思い当たる原因として、母自身が洗濯物を干そうとして転んだと言うから
てっきり、ぎっくり腰とか捻挫とかそういうのを私たちは考えていたけれど
今思えば関節痛は病気の悪化の最初の兆候だったのかもしれない。

2020年4月。
結局、立ち上がることがままならなくなり、つまりは車いすに座り直すことが困難となり
支えてあげて無理に車いすに座らせたとしても、丸一日椅子に座ることは難しいと判断し
1月~3月は通院が出来なかった。
私一人じゃ無理だ・
娘である私が代わりに病院に出向き処方箋を貰ってくることを続けていると
主治医の先生から、そういうご事情なら、訪問診療にしてみたらどうかと提案を受ける。
丁度父も入院していた時期だったので、父が退院をした4月初め、ようやく母を病院に連れていくことが出来
介護保険などを始めとする一連の手続きに入った。
桜の咲く4月のことだった。

当時、世の中は緊急事態宣言が出されている真っただ中だ。
区の方から、申請の手続きが遅れているという連絡があり、結局すべてが動き出したのは5月のGWに入った頃だった。
最初に介護ベッドが入り、これにより母はかなり寝起きが楽になったと言っていた。
なにしろ、足腰が動く度痛むというので、肺の状態や呼吸の苦しさなどは二の次で
夜眠るために布団に横になることすら、苦痛であり、一苦労なのだ。

1月に6時間の足の手術を終え退院したばかりの父が、足を庇いながら母を寝かしつけた。
二人で床に敷いた布団に崩れるように倒れ込むのだそうだ。
大変なんだから~と笑い話にしてはいたが、その無理がたたり、父の足の傷口の完治は大分遅れた。
(2020年9月、ようやく塞がったと医者から完治を宣言された)

それでも母は、決して私には頼らなかった。
生活時間が違うこともあり、「あんたは仕事があるんだから早く寝なさい」と何度も言った。
3月末、私が、コロナの影響で業績が見込めず派遣契約を更新できないと告げられる。
父と母の状態を見れば、二人でどうにかできる状況ではなかった。
自粛期間でもあることから、私は仕事を止め、介護に24時間費やした。

酸素器(最大5ℓ)は退院時から。
介護ベッドが4月に入り、ケアマネが決まり、ヘルパーさんと訪問入浴が動き出した5月
同時に、訪問診療が始まった。


****
訪問診療イコール緩和ケアなのだろうか?

実際に派遣されてきた医師と私たちの間には、かなり酷い認識の違いがあったように思う。
ケアマネが決まり、初めに1時間以上の時間をかけたヒアリングはあった。
母の病気は間質性肺炎という呼吸器系の難病であり、治療法もないという状態であり
申告されてから既に4年目という現状であることもあり
なかなかこの地区での担当医師が見つからなかったという話も、聞いた。
ただ、実際派遣されてきた医師との感覚の違いは、初日から感じ取れた。

私たちにしてみれば、上記のような状態でやむなく通院を諦めただけだったので
別に、「住み慣れた我が家で残された時間を過ごしたかった」わけでは決してなかった。
事実母は、食事すら自分で摂れない状態なのに、まだいつか歩くつもりでいたし
もう起きられないという状態であっても、生きることを諦めてはいなかった。

そんな風に頑張っている母が、私には眩しかったし、尊敬したし、有り難くて誇らしかった。

ましてや、決してそれまでの病院を見限って、否定的に、在宅を選んだつもりは絶対にない。
なのに、派遣されてきた医師は、何の治療もケアもしなかったし、血液検査一つしなかったし
症状が進んでいく様子を「これは心不全が進んでいると出る様子」だの「ああそれは脱水」と言い捨てる。

私たちにしてみれば、だから何?だ。

症状を説明して、でも何の対策もせず、そのまま帰宅する。
一体何しに来たの?
コロナで危機募らせている家にズカズカ入り込んで、それだけ?

そもそも最初に在宅診療の医師が私たちの前に来た5月、下痢の症状が続いていたが
「容体は安定しているから二週間に一度でいいね」と言って退けたのだ。
下痢って、そんな簡易な症状か?
だからつい、そこまで深刻な状況じゃないのかなと素人目には思ってしまった。

その間、母の容態をきめ細かく注意してくれたのは、ヘルパーさんたちだ。
ヘルパーさんは週二回一時間。
担当制ではないとのことだったが、大抵同じ人が来てくれて、色々様子を気にしてくれた。
痰の色、便の色や形、食事の量など、バイタルチェックの他にも色々観察チェックしてくれた。
血圧の高さについても最初に指摘してくれたのはヘルパーさんだったし
肌の乾燥状態や、薬の飲み方、おむつの替え方のコツなどのアドバイスもくれた。
どれだけ精神的に助けられたかは、感謝しかない。


一回目、二回目にも在宅診療の医師は何もしてくれず、母の容態は日々変化した。
素人にその変化は苛酷だ。
流石に肺の状態はともかく、血液検査もしないのはおかしいよねと話し合い、ケアマネに電話をした。
それまでは、医師には医師の都合ややり方があるのだろうと、つい遠慮してしまうのが患者側の本音だろう。

今思えば医師には
「緩和ケアのみに切り替え、病院ではなく住み慣れた自宅で終末期を過ごしたい家族」と認識されていたように感じる。
確かにそれなら、頷ける部分も多々ある。
在宅酸素の危険性についても言及しない、血液検査もしない、症状を訴えても治療しないなど
そうとしか思えない部分が今思えばたくさんある。

その辺の意識の相違は、どこから生じてしまったのだろうか?
そもそも在宅診療に切り替えるということ自体、緩和ケアのみにするという意思表示に捕らえられてしまうのだろうか?

ケアマネの素質の悪さというのもあるし、間質性肺炎という難病の性質もあるのだろう。
最後の最後に母には運がなかった。
それでも、もっと積極的な治療を私たちは望んでいたし、それを拒否する発言は決してしたことはなかった。
母の現状と意志については、ちゃんと伝えたつもりでいた。

そもそも母に余命宣告はしていない。
そう長くはないと自分でも気づいていただろうが、2020年3月の時点で「今年生きられるかどうか」という事実は
伏せていた。
私たち自身、あと数か月、という認識で介護をしてはいない。
二度目の入院となった2020年8月18日、救急で運ばれた時に、その時の担当医師に初めて
「看取りはどうしますか?」と聞かれ、初めて私たちは自宅が病院かの決断を迫られたのだ。


SPO2が急激に下がってしまった時の家族の不安や悲しさ、苦しさは、言葉では言い表せない。
どうしていいか分からない。
このまま苦しんで死んでしまうのではないかという恐怖に苛まれる。
一人で抗う母の手を握り、酸素の回復を待つしかないあの地獄のような時間。
当時は痙攣もよく起こしていて、汗びっしょりとなって、母は一人で戦っていた。

「そういう時は呼べばいいのか?」と尋ねる父に、その医師は
「呼ばれても何も出来ないから」と言い捨てた。
間質性肺炎という難病に向き合う家族の不安や迷いなどに寄り添う姿勢は微塵もなく
在宅酸素の酸素発生器バッテリーの有無さえ意識してくれない。
その意識の欠如は、その医師の医師としての才能の欠如に他ならない。

4年通った病院の主治医も、緊急搬送された時の担当医も、そういう言い方はしなかった。
「してあげられることがなくてね・・・せめて~」という言い方で、医者としての苦悩も見えて
それだけで家族としては何をしてくれるでもなくとも救われた。

そもそもこの訪問医師は、二回目の訪問時、連絡もなく二時間遅刻した。
「社会人としてどうか」と私が問うと、「余裕がある時は電話します」
前の患者さんに苦戦したため時間が押したという理由らしいが、だったら何のために看護士とペアで動いているのか?
患者側は、予約した日は一日中時間を空けていろということなのか。
正直、母の介護の間、買い出し、料理、洗濯、消毒、おむつなどのケア全てをほぼ一人で行っていたため
医者にそんな時間を割ける余裕など、普通、患者側には存在しない。

在宅酸素で、一番不安なのは停電だ。
いつ電源が落ちて、酸素が途切れてしまうか、常にその不安を抱えて過ごす。
例えば夜暗闇で突然電源が落ちた時、冷静に酸素供給まで辿り着けるだろうか?
酸素器にバッテリーが付いていることで、時間稼ぎができるメリットを理解してくれない医師は
そもそもこの病気の本当の怖さを知らないのだと思う。

酸素ボンベは常備(携帯用500ℓを4本)していた。
母は呼吸時のみ吸引するのではなく、常時流量を流す形での使用だったので
500ℓ1本を4リットルで流して、もつのはおよそ1時間。
4本なので単純計算で4時間の猶予を持つ。
だからこそ、酸素発生器本体のバッテリーの有無が重要になってくる。

そのことを告げた時も「東北の震災の時はやっぱりどうにもならなかったみたいで~」と言い訳していた。
別に私たちはあのような大災害が起きた時に、私たちだけ助けてくれと言っているわけではない。
当たり前だろう。
私が心配していたのは、台風などでこの地区だけ夜間停電が起き、復旧は夜明け待ち等になった場合に
その時まで酸素が持つかどうか?というもっと質素で庶民的な話のことだ。


合わないから担当医師を変えてくれとケアマネに伝えたのが7月。
ケアマネからはその後何の連絡もなく、フォローもなく。
結局、母は間に合わなかった。
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